2009年07月03日

重化学工業の比重が高まり

第二次世界大戦後には、重化学工業の比重が高まり、今日も阪神工業地帯の中核を担う。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発で、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に問屋街が発達している。また中之島や北浜界隈には、金融街が形成されている。市役所の所在する中之島から大坂城にかけての地域には、官公庁や公的機関が数多く立地し、近畿圏はもとより西日本の行政の中心地となっている。 マスターカード社が発表する世界のビジネス都市環境のランキングで19位にランクされるなど、世界的にも経済活動が盛んな都市と評価されている[3]。
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大阪市は、淀川の河口に開けた古くからの港湾都市で、瀬戸内海と京を繋ぐ水運の要を担い、西日本の物流の中心として栄えてきた。

また、近畿圏最大の都市として、近隣の政令指定都市である神戸(兵庫県神戸市)・京都(京都府京都市)とあわせて三都、京阪神と称する。市域の西部は大阪湾に面し、沿岸北西部にかけて阪神工業地帯が広がる。市内経済総生産は約22兆円に達し、近畿経済圏の中心地である。

大阪府を含め市内全域が瀬戸内海式気候に属し、年間を通して温暖で過ごしやすい。近年は都市化によるヒートアイランドの影響で、郊外に比べ夜間の気温が低下しにくく、冬日の減少・熱帯夜の増加が顕著である。また、降雪日数は同緯度地帯では平均的に発生するが、1センチ以上の積雪日数は本土で最も少ない。

2009年06月13日

物質は全て原子でできていると想定しこれが化学結合

物質は全て原子でできている、と想定し、これが化学結合によって幾つか結合すると分子を形成する、とする。原子や分子はまたイオンやラジカルという状態をとりうる。また、同じ物質でも、原子価によって性質は異なる。これらの性質には電子が大きく関与している。

原子や分子がある程度の量あつまると、特徴的な性質をもった集団を形成する。これを相といい、大きく分けて固体、液体、気体などがある。

物質の構造 [編集]
物質は原子から構成されるが、その原子間の結び付きを化学結合と呼ぶ。化学結合には形式によって幾つかの分類があり、その種別により物性は大きく異なる。また、結合している原子同士については、結合距離の変化(振動)や、結合を軸とする回転といった揺らぎ運動をしているので、結合関係(立体配置)は変わらないものの、相対的位置関係(立体配座)は容易に変化する。

化学反応 [編集]
複数の物質を混合したり、必要があれば加熱・冷却する事により異なる化合物ができる。これを化学反応と呼ぶ。化学反応は物質を構成する原子の間の化学結合の変化により起きる。化学反応の前後では全体の質量は変わらない。これを質量保存の法則(あるいは物質不変の法則)という。

炎は有機物の酸化反応によって放出される熱エネルギーの現れであるから、化学の歴史は人類が火を扱いはじめたときから始まっているとも考えられる。金あるいは銀以外の金属は、自然界には酸化物ないしは硫化物として産出するので、古代における青銅器・鉄器などの金属精錬も化学反応である還元反応を知らずと利用しているのである。

古代ギリシアにおける学問の発展はアリストテレスにより大成されたが、その理論に基づいてアレキサンドリアで錬金術が学問化された。これは、アラビア世界に伝達されてアラビア科学の一部となり、中世ヨーロッパにおいて、天文学、数学、医学と同様にラテン語に翻訳された。金を他の物質から作ろうとする錬金術が盛んになり、様々なものを混ぜたり加熱することが試みられ、結局、金は得られなかったが、その副生物として各種薬品が生み出された。この錬金術が化学のルーツとされる。ただ当時は、化学変化を引き起こす真理を探求する学問と言うよりは、実験的事実を集積する博物学的学問であった。
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
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音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール

近代に入ると、化学反応を定量的なアプローチで解釈するようになり、原子・分子の組み換えが化学反応の本質であることが理解されるようになった。しかし、化学反応の中心原理が何であるかは、物理学が原子の成立ちを解明する19世紀まで待つ必要があった。すなわち19世紀後半に展開した原子核と電子に関する物理学は、化学反応が原子と電子の相互作用に基づくことを解明した。

また20世紀に入ると、化学結合の性質が量子力学で支配される電子の挙動(分子軌道)に起因することが理解され、これが今日の化学の中心原理となっている。とはいうものの、今日において物理学の根本が量子論・相対論の時代であってもニュートン力学の価値がいささかも失われていないように、近代に確立した化学当量、オクテット則や酸化数あるいは有機電子論などの古典化学理論は、今日的な意味を失うものではない。

他また、有機化学と高分子化学も20世紀に発展を遂げ、一方では生物学との境界において多大な進歩をもたらし、生物学を全く新しいものとした。もう一方ではそれまで存在しなかった様々な物質が合成され、工業社会の大きな発展の元になり、同時に公害問題などにも深く関わるようになった。

日本における歴史 [編集]
日本ではじめての近代化学を紹介する書となったのは、江戸時代の宇田川榕菴の『舎密開宗』(せいみかいそう)をもって嚆矢とする。舎密は化学を意味するオランダ語 Chemie の字訳である。舎密開宗の原著はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが1801年に出版した An Epitome of Chemistry である。宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語は、宇田川榕菴によって考案された造語である。

2009年06月09日

女子学生の増加や公務員の人気低下に伴い

近年の傾向として、女子学生の増加や公務員の人気低下に伴い、小動物臨床分野へ就職する獣医師免許取得者が増加している(下記「獣医師免許取得者の動向」を参照)。開業すれば自営業になるため公務員や民間企業のような定年制度がなく、特に同分野では健康保険や共済制度の適用がないことから、一部で「儲かる仕事」だという誤解と偏見がある。しかし多額の借金をして開業することで名誉や充実感を得ても経営難に陥る施設が少なくなく、開業獣医師の下で働く代診となる雇用獣医師も高年齢になると様々な意味で敬遠されがちであり、再就職に問題が起こっているのも実情である。特に都市部では小動物臨床獣医師の過当競争が一施設当りの収入減少につながり、開業獣医師同士のモラルの低下、過剰かつ不必要な検査・処置及び料金の値下げ競争などに拍車をかけ、更に故意ともいえる虐待を含んだ重大な医療ミス[1]や、獣医師法・獣医療法をはじめとする関連法規に違反した行為などの問題もおきている[2]。
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動物好きがきっかけで獣医師を目指す学生にとっても、臨床獣医師は「毎日動物を助ける、カッコ良く華やかな仕事」に見えるようであるが、「カリスマ」などと称されてテレビや雑誌に登場するごく一部の例外を除けば、後に述べる他の業種と関係なくその生活は非常に地味なものである。学生時代には実習等で多くの動物を殺さなければならず、実際の開業後も殆どの動物病院が小規模な個人経営のため、汚物処理なども含めた入院している動物の一般的な世話を獣医師自身が行わなければならない場合が殆どである。
また、臨床獣医師の仕事は純粋なサービス業であると言うことができる。技術的に治すことが可能な怪我や病気であっても、動物に与える苦痛や飼い主の経済的負担が大きい場合には安楽死(産業動物であれば食肉としての早期出荷を含めた廃用・淘汰)を勧めなければならない事が多く、飼い主の希望や経済状態に配慮しながら、治療を通じて飼い主との間に良好な信頼関係を築いて行くことが治療以上の重要な仕事となる。更には近隣住民からのペット飼育に関する指導・苦情を含めた相談等の依頼も多々あり、「動物の医師」であっても使命の根源は一般社会と同様に「人間の生活レベル向上」への寄与であるため、基本的に「動物は好きだが人間は嫌い」という者には勤まらない職業である。

2009年04月25日

バルカン諸民族にとっては

ヨーロッパ諸国にとっては「外交問題」、バルカン諸民族にとっては「民族問題」、オスマン帝国にとっては「領土問題」の側面を持つ。 これを「東方問題」と総称する場合、あくまでヨーロッパ列強から見た「外交問題」の側面が強調される。 列強間の東方に関する外交問題はベルリン会議(1878年)で一応の決着を見た。 それ以降、列強の利害は「東方」地域だけでなく、エジプト以南のアフリカ・極東を含めて全世界規模で調整されるようになったので、列強にとって「東方問題」の重要性は減じた。 しかし、これはあくまで列強間の外交上のことであり、バルカンの民族問題は全く解決されていなかった。 後にそのことは二度のバルカン戦争によって明らかになり、この民族問題は第一次世界大戦を引き起こす要因のひとつとなった。 最近のコソボ紛争にいたるまでこの民族問題は未だ解決されておらず、今日まで持ち越されている問題である。 このため「東方問題」の決着は見方によって一様ではなく、ベルリン会議とみなす場合が多いが、後に続く紛争も「東方問題」に含めて論ずる場合もある。

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これらの問題を「東方問題」と総称する場合、ヨーロッパ側の視点に立ち、一連の問題をオスマン帝国がヨーロッパ諸国の外交秩序に組み入れられていく過程として捉えて説明する傾向が強い。 このことにより「東方問題」は列強の帝国主義政策・膨張政策と関連づけられる傾向にあり、主として

ドイツ・オーストリアの「汎ゲルマン主義」とロシアの「汎スラヴ主義」の対立
エジプトとオスマン帝国の紛争およびそれに関わる英仏の中近東政策の対立
ロシアの南下政策とイギリスの帝国主義政策の対立
イギリスの3C政策とドイツの3B政策の対立
などを軸として語られることが多い。 東方問題で扱われる問題の一部は、オスマン帝国における近代化へ向けた自己改革運動の側面を持つものもあるが、「東方問題」と総称する場合には、自己改革的な側面は無視あるいは軽視される傾向が見られ、それらの改革運動も最終的には列強との力関係や外交状況に影響されたものと捉えられる傾向にある。

2009年04月08日

中島みゆき

中島 みゆき (なかじま みゆき、本名:中島美雪、1952年2月23日 - ) は、北海道札幌市出身(注・公式サイトでは札幌出身となっているが、大手マスコミのほとんどは帯広市出身として扱っており、ファンの間でも帯広出身とするのが常識となっている。詳細は経歴欄参照)のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。暗く重い作風とラジオ番組などでの明るい語り口とのギャップで1980年代前半に大きな人気を博し、現在も根強い支持を受け続けている、日本を代表する女性シンガーソングライターの一人。公式ファンクラブ名は「なみふく」である。

オリコンで4つの年代に渡ってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:わかれうた、1980年代:悪女、1990年代:空と君のあいだに、旅人のうた、2000年代:地上の星)唯一のソロ・アーティストでもある。
幼年期 - デビュー前
祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、父・眞一郎は産婦人科医。札幌市に生まれ、5歳のときに岩内に引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。その後帯広に移り、帯広小学校を卒業。帯広第三中学校に入学。1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移り市立第六中学校に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻る。その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子大学文学部国文学科を卒業。

帯広柏葉高校3年生の時、文化祭で初めてステージを踏む。この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」である。大学時代は、放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをする一方、北大フォークソングのメンバーとも交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コンテスト荒らし」の異名をとった。1972年には、「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している(なお、この時の音源は大会実況版としてLP化されている)。なお後年、本人はコンテストに出場したのは(交通費や弁当代が支給されるので)、バイト代わりであったと述べている。大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝う傍ら、アマチュア活動を続ける。喫茶ジャズオーディオのマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画で多くのステージを踏み、デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得していた(デビュー以前、オリジナル曲は既に100曲以上存在していた)。

デビュー - 1970年代後半
1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。同年9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)から晴れてレコード・デビューを果たす。そして、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。つづけて11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した(「時代」は同年12月にセカンド・シングルとして発売)。これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。

1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。同年には研ナオコに提供したシングル「あばよ」が大ヒットし、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。翌年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。職業作曲家・作詞家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。

数少ない出演番組のひとつとして1977年から放送されたコッキーポップがある。その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。この作品は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲のひとつとなっている。なお、『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得している。

1980年代
1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーのあいだで大きな人気を集めた。1980年代前半にはミュージシャンとして更に大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、翌1982年の年間チャートでも6位を記録、また、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞した。

しかしながら、それ以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。当時中島は、甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいる。また、1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期を振り返り、「御乱心の時代」と称している。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当した(作曲は後藤次利)。

そんな「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイ ガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三との出会いによって収まることとなる。中島にとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、それ以降現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっている。1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。

1990年代
1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかったが、その中において中島みゆきも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。この3枚のいずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、現時点での中島にとっての最大級のベストセラーである。また、この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、それでも1980年代後半よりも安定した成績を収めた(『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている)。1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新(現在この記録を保持しているのは竹内まりや)。しかし、その後1997年から1999年にかけてのCDセールスは全体的に大きく伸び悩んだ。

一方で、1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成される、より大掛かりなものへと変貌を遂げた。

また、1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。現時点でこの審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきただ一人だけである。

2000年代以降〜
2000年には25年に渡って在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社、ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。以降現在までヤマハから作品を発表している。

移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。このシングルは主に中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週に渡ってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。

発売当初、このシングルは全くと言っていいほど話題にならなかった。しかし、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。このアルバムを発売するにあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレーム(岩波文庫をもじって「山波文庫」=ヤマハ文庫と表記した)がつき、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。

このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出演。『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。このとき初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。また、極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。同時に、1970〜2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。

2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演。歌詞以外はほとんど声を発することなく、スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。

『紅白歌合戦』及び『プロジェクトX』の最終回で歌詞以外ほとんど声を発することがなかった(※秒単位で進行する紅白歌合戦の台本には「中島みゆきさんからみなさんへ」というアドリブ項目がわざわざ設けられていたのにもかかわらず)のは、(ファンは知っているのだが)当の本人の「あっけらかん」さが表れるのがいやだった、と本人がラジオ(2006年12月15日『オールナイトニッポン』にて)で話している。

1990年代前半から本格的に行うようになった海外でのレコーディングは2000年代からは主流となり、近年では、アレンジ等にベックの父親として知られるデヴィッド・キャンベルや、ヴィニー・カリウタ、ニール・スチューベンハウス、マイケル・トンプソンなどといった有名スタジオ・ミュージシャンを迎えて毎年アルバムを制作するのが恒例となっている。

1998年に一旦休止した「夜会」は2000年から再び不定期で行われるようになり、2006年の「Vol.14 24時着00時発」は、東京においてはこれまでのシアターコクーンではなく青山劇場で、大阪では初めてシアターBRAVA!において上演された。

2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。シンガーソングライターとしては初の受賞者。

また同年には、TOKIOに提供した「宙船」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。

2007年8月から新たに設立されたヤマハミュージックアーティストがマネジメントが行う。同年秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。

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2009年03月24日

百舌鳥駅(もずえき)

百舌鳥駅(もずえき)は、大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲(もずせきうん)町二丁にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅。ICOCA・Jスルーカード利用可能駅(相互利用可能ICカードはICOCAの項を参照)。

仮名よりも漢字の方が字数が多いという、あまり例をみない珍しい駅である。

周辺は百舌鳥古墳群と呼ばれるエリアで、百舌鳥駅はその中心古墳である仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の最寄り駅である。
相対式2面2線の地上駅である。上下線別々に改札口があり、入場後のホーム間の移動はできない。上下線共に改札口は日根野側にある。改札とホームとはスロープだけで結ばれている旧態依然とした構造だが、バリアフリーの面では非常に好ましい形となっている。

なお駅社員は上り線側のみに常駐しており、下り線側は朝夕ラッシュ時以外無人である。駅業務は(株)ジェイアール西日本交通サービスへ委託されている。駅業務は2007年4月1日より一部時間を除いて休止されている。休止時間中はインターホンで鳳駅の駅員が遠隔対応。

阪和線の駅としては珍しくカーブ途中にホームが設置されている。そのため下りホームの見通しは悪くなっている。

のりば 1 ■阪和線(下り) 鳳・日根野・和歌山方面
2 ■阪和線(上り) 堺市・天王寺方面

※駅掲示時刻表の路線名は上下線とも「阪和線・関西空港線」となっているが、当駅から直接関西空港行きに乗車することはできない。

利用状況 [編集]
百舌鳥駅の乗車人員は1日平均4,131人(2004年度)であり、阪和線・関西空港線の駅の中では第22位(但し大阪府内だけの順序)の利用者数である。

駅周辺 [編集]
仁徳天皇陵(大仙陵古墳)
いたすけ古墳
御廟山古墳
大仙公園
堺市博物館
堺市立中央図書館
百舌鳥八幡宮

バス [編集]
南海バス - もず駅前

堺東駅・工業学校前 方面行き(市立堺病院前を経由する便も一部あり)
深井駅・土師 方面行き
なお、堺東方面への乗り場は、駅から少々離れた場所にあるので注意が必要である。

歴史 [編集]
1929年(昭和4年)7月18日 - 阪和電気鉄道の仁徳御陵前停留場(にんとくごりょうまえていりゅうじょう)として開業。
1938年(昭和13年)5月?日 - 百舌鳥御陵前停留場(もずごりょうまえていりゅうじょう)に改称。
1940年(昭和15年)12月1日 - 阪和電気鉄道が南海鉄道と合併、南海山手線の停留場となる。
1944年(昭和19年)5月1日 - 南海山手線が国有化され、国鉄阪和線の駅となる。同時に百舌鳥駅に改称。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR西日本の駅となる。
2003年(平成15年)11月1日 - ICカードICOCA供用開始。

隣の駅 [編集]
西日本旅客鉄道
■阪和線
■はんわライナー・■関空快速・■紀州路快速・■快速・■直通快速・■B快速・■区間快速
通過
■普通
三国ヶ丘駅 - 百舌鳥駅 - 上野芝駅

プレシン スタン ガッツ ジャー ひのえま トーイ プールバ ジメチル ウイット ブチュ ディス ハピパラ ていてつ コチニー ハトムギ トライク 紅葉雪 スカラ はちのへ ストラ 熱帯雨林 ストーン テンス もみじが NETリブ 恋待月 サーチ 桜坂 チシェリー トートナビ フェノール ツルコ のへじ トレラ ルーセン つるみ デジカルビ ディパー オーナラ すぎごけ デルフ マニフェ デリン ようとう スエヒ レソト スイング リベート ハッピー ミリグラム

2009年03月08日

ロックフォール (Roquefort)

ロックフォール (Roquefort) は、ブルーチーズと呼ばれるアオカビで熟成されるチーズの代表格。

フランス南部ミディ=ピレネー地域圏アヴェロン県のロックフォール=シュール=スールゾン村の地下に広がる洞窟に、コムギとオオムギの粉で作ったパンを設置して採取、繁殖させたアオカビの一種 Penicillium roqueforti により熟成させたヒツジの乳によるチーズ。

伝説的には数千年前、この村内のコンバルー山北側斜面に形成された巨大な洞窟で、羊飼いがたまたま置き忘れたチーズに青カビ菌が付着してこのチーズが出来たとも言われるが、確かなところはわからない。現在もこの洞窟で採取されたアオカビを使い、またこの洞窟を利用した熟成庫で熟成させたものでないと、ロックフォールとして販売出来ないアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレ(AOC、原産地統制呼称)指定を受けている。

原料乳は羊乳である。古くは牛乳や山羊乳を多少混ぜることもあったが、1925年の法令で禁じられた。原料乳を搾乳する羊の品種はラコーヌ種、マネッシュ種、バスコ・ベルネーズ種が使われており、ラコーヌ種の割合が30%ともっとも多い。羊の飼料は草を主に与え、穀類などの配合飼料はあくまでも補助程度にとどめることになっている。

熟成に用いるアオカビ P. roqueforti は、先述のようにコンバルー山北側の石灰岩質の断崖が崩落して形成された斜面内部の洞窟で採取する。空気の流通のよい場所を選び、オオムギとコムギで作った10kgの大きさの丸パンを1-2ヶ月放置する。カビが内部にまで十分繁殖したところでパンの皮を除き、カビの胞子を含んだ内部から良質の部分を選抜し、乾燥して緑色の粉を得る。収率は重量比でもとのパンの1%程度である。

原料乳を温めて、乳酸菌のスターターを加える。これに凝乳酵素を加えてカードを得るが、酵素を加えるのは搾乳後48時間以内と定められている。得られた凝乳(カード)は切断して自然に乳精(ホエー)を排出させる。このカードを過熱したり圧搾したりせずに加塩して型に入れる。このあとのホエー排出も圧搾せずに自重で自然に行い、カード片の間の隙間を温存させてチーズ内部のアオカビ繁殖面とする。

アオカビを接種するのは、資料によって原料乳を暖めた段階で混入するとするものと、カードを型に移す段階でまぶすとするものがあり、メーカーによって異なるのかもしれない。カードにまぶす場合も、胞子を含んだ粉を直接振り掛ける場合と、液状にして表面にかける場合がメーカーによって分かれるようである。

型からはずしたチーズは8日間寝かせてからコンバルー山の洞窟の熟成庫に運び込み、内部の隙間に空気が流通するように、1.5mmの太さの針を32本突き刺す。最低3ヶ月、通常4ヶ月、長くて9ヶ月熟成を行うが、熟成開始後4週間でアオカビの繁殖を抑制するために錫箔でくるみ、空気の流通を制限する。

味覚
塩分の量が多いため、塩味はかなり強い。また、アオカビによって乳脂肪分が分解されて生じた脂肪酸などのために鋭い鋭角の風味があって、原料の羊乳の乳臭さはほとんど消失している。熟成が進んだものは浸出液がにじみ出ており、口に入れただけで容易に崩れて溶け、鋭い香りとともに強いうまみと塩味を感じる。内部の隙間に繁殖したアオカビは溶けないので、かびだけが残ってざらついた舌触りとなる。
アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ

その他のブルーチーズとしては、イタリアのゴルゴンゾーラ、イギリスのスティルトンが有名であり、まとめて「世界三大ブルーチーズ」と称されることもあるが、ロックフォールが羊乳を原料とするのに対し、他の2者は牛乳を原料とするのが異なる。フランス国内では他にブルードーベルニュと呼ばれるオーベルニュ産の牛乳を原料とする青かびチーズが知られる。

2009年02月20日

ビッグコア(BIG CORE)

ビッグコア(BIG CORE)とは、コナミのシューティングゲーム『グラディウス』シリーズに登場する架空の兵器。バクテリアン軍の主力宇宙戦艦である。完成度の高さと、コストの安さにより、戦艦クラスでは最多の配備数を誇り、初めて存在が確認されて以来、数千年間に亘り主力の座を堅持しているという設定である。
ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

第一作グラディウスのステージ1から5までのボスキャラクターとして初登場。以来主人公機ビックバイパーのライバル的存在であり、モアイと並ぶシリーズの顔である。以降の作品においてステージボスないしは中ボス、雑魚キャラ更にはプレイヤー機として登場する。またシリーズを重ねる毎にMk-IIをはじめMk-III、Mk-IV他、様々なバリエーションが登場する[2]。 グラディウスシリーズにおける戦艦型のボスキャラは殆どビッグコアとその派生である。また「ビックコア」となっている書籍も存在するがそれは誤表記である。

名称の由来である中心部の核(コア)を、ビックバイパーの火器では貫通できない程堅牢な装甲が覆い、主砲として前方に4門のイオンレーザー砲を搭載している。形状は正六角形を前方へ少し伸ばした様な形で、後部両端には斜めに(MSX版では後ろに)メインスラスター2基と針状のアンテナ4本が装着されている。全体的にステージに登場する小型の雑魚戦闘機をそのままスケールアップしたような外見である[3]。機体の向きは近年のCGデモではゲーム画面に批准しビックパイパーに対して縦向きであるが、『沙羅曼蛇』のステージ6に中ボスとして登場する機体は横向きであり、漫画イラスト作品でも横向きである事が多く、ネメシスIIのパッケージイラストでは更に上下非対称である。

グラディウスVなどの3DCGでは画面に対する奥行きが薄く、魚のマンボウのような立体形状となっており、デモでは(遮蔽板のある正面ではなく)側面から直接コアのみを撃ち抜かれて倒される描写もある(実際、グラディウスVに登場するローリングコアは、大型レーザーの発射時に直接弱点を狙える)。しかしソーラーアサルトでは正四角錐のような形状になっており、上下左右どこからでも同じような形状に見えるようになっている。

攻撃方法は作品によって動きが異なるが基本はレーザー砲4門の一斉射である。砲は固定式と思われがちだが、グラディウスVのデモにおいて、上下に動くことが確認されている。

唯一の弱点は中心部のコアで、前方の主砲の間にある隙間からしか攻撃できず、さらにコアまでは4枚の大きな遮蔽板と1枚の小さな遮蔽板、計5枚(作品によって数が異なる場合がある)の遮蔽板があり、高次周になると遮蔽板を破壊する度に弾を撃ち返してくる(作品によっては最初から撃ち返してくるケースもある)。プレイヤーは主砲の攻撃を掻い潜り(また、撃ち返しの弾を避け)つつ攻撃しなくてはならない。これは以降の作品に登場するコアシリーズも同様である。

初代以来使われているBGMのタイトルは「Aircraft Carrier」。

登場作品
オリジナルのビッグコアが登場する作品は以下のとおり。

グラディウスシリーズ
グラディウス
ステージ1?5のボス。上下に動き、一定間隔で停止しながらレーザーを1回撃ってくる。FC版、MSX版ではデザインが異なり、FC版についてはファミコンのハード性能、カセットの容量の制約上、中型ザコキャラの「マザー」とほぼ同じ大きさに縮小されてしまっている。MSX版は遮蔽板がとても多い。
沙羅曼蛇(AC版、PCE版)/ライフフォース
ステージ6の中ボスとして1隻ずつ、合計3隻登場。初代グラディウスの機体より二回り程小さく、動きは素早いが遮断板の数が3枚と少ない。停止しないで動きながらレーザーを発射し、レーザーを撃つ間隔が短いのも特徴。
FC版では、ビッグコアの代わりに、ビッグコアのデザインを若干変えた様な「クラッシュバム」という中ボスが登場(後述)。
グラディウス2/ネメシス90改
ステージ4で中ボスとして1隻ずつ、合計10隻登場。デザインはMSX版グラディウスと似ている。画面右端のやや上下から交互に出現してそのまま前進し、逆「コ」の字型の軌道を描いて移動する。
グラディウスII
ボスオンパレードの一番手。グラフィックは初代グラディウスと変わりない。攻撃方法のパターンが増え、上下に動き、一定間隔で停止しながらレーザーを1回撃ってきて、ある程度レーザーを撃つと、前進して1回レーザーを撃っては後退する。 遮蔽板を破壊すると1周目から撃ち返し弾が発生する。
FC版では前作よりカセットの容量が増えたためデザインがAC版にかなり近くなったものの、こちらの方がやや大きく、遮蔽板が3枚しかない。
ゴーファーの野望 エピソード2
ボスオンパレードステージのボス。デザインが前作と異なる。
グラディウスIII(AC版)
隠しステージのボス。グラフィックは初代グラディウスと変わりない。攻撃方法が初代と同じだが、停止しないで動きながらレーザーを撃ってくる。
ネメシス
ステージ1のボス。デザインはMSX版に準拠。名称はスーパービッグコア。
ネメシスII
ステージ1開始時ビックバイパーを追撃、ステージ2がビッグコア内部の戦闘でボスは内部コア(動力部?)。ビッグコアそのものはあくまでもイベントキャラであるため直接の戦闘は無い。外見は他のシリーズのものに比べ生物的なデザインで、遮蔽板が無い独自のものとなっている。
実況おしゃべりパロディウス
ボスオンパレードの一番手。プレイヤー機の後ろに回り攻撃してくる。SFC版のみ登場でPS版では登場しない。
グラディウス外伝
ステージ2の残骸の中から落下や上昇、イオンレーザーで攻撃してくるビッグコアの残骸(スクラップビッグコア)が存在する。また、機体の破片(スクラップ)も大量に出てくる。
ソーラーアサルト
 ステージ1のボス。レーザーの他ミサイルで攻撃してくる。
グラディウスV
ステージ1,3,7で中型雑魚キャラとして登場。公式の名称は「ビッグコアMk-I」。砲が6門に増強されている。ステージ3では狭い坑道内でビックパイパーを背後から追いかけつつ砲撃してくる前半最大の難所となっている。
グラディウスNEO
ステージ5の中ボスとして1隻と2隻同時に、合計3隻登場。
グラディウスNEO -IMPERIAL-
主人公機であり脱走艦。名称は「ビッグコアカスタム」。ビックバイパーと同じく編隊や特定の敵機を撃破して入手できるパワーカプセルの数によってパワーアップ。コアと遮蔽板に当たり判定があるが、装甲部分は巨大レーザー砲以外の敵の弾や敵機の体当たりに対して無敵、バリアーは遮蔽板。このゲームは残機設定が無く、一度でも撃破されたらゲームオーバー。ステージ1のボス戦は同型艦同士の一騎打ち。
オトメディウス
2008年3月26日に追加されたバーサスミッションで登場する。基本的な攻撃パターンはオリジナルから大幅に変化していないが、軽やかな動きでプレイヤーを翻弄する。
この作品ではビッグコアとその系列艦は宇宙戦艦ではなく機動兵器と呼称されている。

その他
コズミックウォーズ
2P側(バクテリアン軍)の戦艦ユニットとして登場。同小型戦艦ユニットとしてリトルコアが登場。
がんばれゴエモン?ゆき姫救出絵巻?
ゲームセンターでグラディウスがステージ1のみプレイ可能。同ステージのボス。
ワイワイワールド2 SOSパセリ城
画面に収まらない大きさに超巨大化したビッグコアが登場する。後部には尾びれのようなものがあり、それらを併せてR-TYPEの巨大戦艦、ならびにダライアスのボスのような印象を与える。また船体上下にスクランブルハッチがあり、ビッグコアを小型化したような艦載機が一回につき四機射出され、全機撃墜するとカプセルを出す
沙羅曼蛇 瞑想のパオラ
バクテリアンの宇宙空母として登場。デザインはファミコン版に近い。

補足
遊☆戯☆王オフィシャルカードゲーム デュエルモンスターズにおいてビッグコア以下、テトラン等歴代のボスキャラクターが巨大戦艦シリーズとしてカード化。ボスラッシュというグラディウスシリーズのボスラッシュのようなことが出来るカードがある。TVアニメにも登場している。

2009年02月04日

高階氏(たかしなし)は、天武天皇の長子

高階氏(たかしなし)は、天武天皇の長子、高市皇子を祖とする氏族。

長屋王の変の際、父・長屋王(母:御名部皇女)と共に自害した桑田王(母:吉備内親王)の子・磯部王が助命され、その孫の峯緒王が承和11年(844年)に臣籍降下して高階真人を賜る。
カニュ デルタ アルベド プロシ ドハウツー ドワイン ドッグカ プレート セレフ ちくせい ファック ろっか クロス ティア パズル データ バビロン ジョドパー ニヒリ ドライ スパーク イカット パプア セコイア 道のかなた あみん ロポリス ラバード トニク ヘリオト ドリーム ナビタフ フリクシ 星屑 イメチ 栗マロン テネシー マクラ トランサー ドルーズ ロボット ルーティン 美しい コロラド デイジー すうせい スパコン キンカン ぴーたん れんが

峯緒は伊勢権守となり、斎宮・恬子(やすこ)内親王に仕えた。一説によれば、内親王と在原業平が密通して生まれた男児を引き取り、師尚と名付け、自らの跡を嗣がせたという。以後、高階氏の人々は伊勢神宮に参拝することを控えるようになる。尤も、この「師尚隠し子説」は事実無根という説も根強い。

成忠の時に、娘・貴子が藤原道隆の正室となり一条天皇の中宮・定子を産んでにわかに繁栄する。しかし、定子の生んだ敦康親王の即位は藤原道長に妨害され、成忠の子孫は中関白家と共に没落する。藤原行成が高階氏の血を引く敦康親王の即位は、伊勢神宮の怒りを買うと進言したことが大きな要因となった。

成忠の弟・敏忠の系統は道長に接近して、受領として勢力を築く。欲大弐と呼ばれた成章、白河法皇の近臣として法勝寺の造営を行った為家・為章親子などが代表である。後白河院政期にも後白河側近の大蔵卿・高階泰経、寵妃・高階栄子(丹後局)が活躍する。その後は有力者を輩出できず没落、南北朝期の寛経を最後に、公卿が出なくなった。しかし代々足利家執事をつとめた高氏 が高階氏から出ているように、武家としてはその後も大いに繁栄している。室町幕府の執事である高師直や織田信長、豊臣秀吉に仕え大名となった堀尾吉晴も高階氏の末裔とされる。

系図
天武天皇?高市皇子?長屋王?桑田王?磯部王?石見王?(臣籍降下)高階峰緒…

…高階峰緒?茂範?師尚?良臣┬成忠?貴子?定子
              |
              └敏忠?業遠……

藤原 定子(ふじわら の ていし/さだこ、貞元2年(977年) - 長保2年12月16日(1001年1月13日)[1])は、平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・?子内親王の生母。通称は「一条院皇后宮」。『枕草子』の作者清少納言が仕えた女性である。

関白内大臣正二位藤原道隆の長女、母は式部大輔高階成忠の女・正三位貴子。正二位内大臣伊周、正二位中納言隆家は同母兄弟。

略伝
永祚元年(989年)父方の祖父である摂政兼家の腰結いで著裳、その時はじめて歴史の表舞台に登場する。正暦元年(990年)1月25日、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内し[2]、まもなく従四位下に叙せられ、ついで女御となる。局は登華殿(一説に梅壺、または両方とも)。

同年10月5日[3]、皇后に冊立され「中宮」を号した。なお、定子は一条天皇の皇后として「中宮」を号したのであり、立后の詔にも「皇后」と明記された。正暦元年当時、律令が定める「三后」のうち、太皇太后は3代前の帝の正妻・昌子内親王、皇太后は当帝の生母・藤原詮子、中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子で全て占められていた。道隆はその中に割り込んで定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させて定子に与え、また遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設した。その結果、「往古不聞事」である皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いたという(『小右記』)。また、道隆は弟の藤原道長を中宮大夫に命じて定子を補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別を利用して「一帝二后」を謀り、定子を窮地に追いやることになるのだが、その元を作ったのが定子の父道隆であることになる。同じ年の5月には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は輝かしい栄華を謳歌した。

定子の母貴子は円融朝に掌侍を勤めて高内侍と称された人で、女ながらに漢文を能くし、殿上の詩宴にもに招かれるほどであった。また、定子の父道隆は、「猿楽言」(冗談)を好み酒を愛した陽気な性格の人だという。こうした父母の血を享けて、定子は聡明な資質を持ち、和漢の才に通暁したばかりでなく、明朗快活な性格に育ったらしい。正暦4年頃から定子の死去まで彼女に仕えた女房・清少納言が著した随筆『枕草子』は、生き生きとした筆致で、彼女の外面的・人格的両面の類稀な魅力を今日に伝えている。従弟にあたる夫・一条天皇との仲も至極良好で、機知を愛し風雅を重んじる一条朝の宮廷の風潮は定子の功に負うところが大きい。

しかし、長徳元年(995年)4月10日、関白であった定子の父道隆が死去すると、政権は国母・東三条院詮子の介入により定子の叔父道兼、ついで道兼が急死するとその弟道長の手に渡り、有力な後盾を失った定子の立場は危ういものとなった。さらに、翌年4月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院奉射事件を起こして左遷され(長徳の変)、当時懐妊中の定子も内裏を退出し里第二条宮に還御するが、目の前で邸に逃げ込んだ兄弟が検非違使に捕らえられることを見て、あまりの衝撃に自ら鋏を取り落飾した。

中宮定子の突然の出家は5月1日のことで、この後、同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなどの不幸が相続く中、定子は長徳2年(996年)12月16日、第一子・脩子内親王を出産した(予定の出産に大幅に遅れ、この時、世の人は中宮が「懐妊十二月」と噂した)。

その後、長徳3年(997年)4月になって伊周らの罪は赦され、また一条天皇は誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月、再び定子を宮中に迎え入れた。これについて、『栄花物語』は天皇の心情を体した東三条院や道長の勧めがあったとし、また高二位(高階成忠、中宮外祖)が吉夢(皇子誕生の夢)を見たとしてためらう定子を駆き立てたという。中宮御所は清涼殿からほど遠い中宮職の御曹司と決められたが、そこは「内裏の外、大内裏の内」という厳密には「後宮」といえない処に位置し、その上母屋に鬼がいたという不気味な建物[4]で、中宮付き官人の事務所に使われることはあっても、后妃の寝殿に宛てがわれることは無かった。そのような所に住まわされたことだけでも、定子の中途半端な境遇が分かる。また、再入内の当日、一条天皇は他所へ行幸し、夜中に還幸しているが、そこにも朝野の視線を定子入内から逸らそうとする苦心が見える。『栄花物語』に拠れば、職の御曹司では遠すぎるからと、一条天皇の配慮により近くに別殿が準備され、天皇自ら夜遅く通い、夜明け前に帰るという思いの深さであった。にもかかわらず、天皇が定子を内裏の中へ正式に入れず、人目を避けて密かに通わざるを得なかったことには、出家後の后の入内という異例中の異例への世間の風当たりの強さが現れている。貴族たちの顰蹙を反映して、藤原実資はその日記『小右記』長徳3年6月22日条に、「天下不甘心」の語を記している。

この再入内で定子は実質的に還俗し、長保元年(999年)11月7日、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。天皇の喜びは大きかったが、先に長女彰子を入内させていた道長はこのことで焦慮し、彰子の立后を謀るようになる。東三条院詮子の支持もあって、長保2年(1000年)2月25日、女御彰子が新たに皇后に冊立され「中宮」を号し、先に「中宮」を号していた皇后定子は「皇后宮」を号させられ、史上はじめての「一帝二后」となった。同年の暮れ、定子は第二皇女・?子内親王を出産した直後に崩御し、生前の希望から鳥辺野の南のあたりに土葬された。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町にある鳥辺野陵(とりべののみささぎ)とされている。

崩御に臨んで定子が書き残した遺詠「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」は、『後拾遺和歌集』に哀傷巻頭歌として収められ、また、鎌倉時代初めに編まれた小倉百人一首の原撰本「百人秀歌」にも採られている。

定子の崩御後、中関白家(父と弟の間にあって関白になった道隆家の呼称)は没落の一途をたどった。敦康親王が、后腹の第一皇子でありながら即位できなかったのも、それゆえである。定子が儲けた3人の子は、はじめ東三条院詮子が?子内親王を、定子の末妹御匣殿が脩子内親王・敦康親王を養育した。女院・御匣殿が相次いで死去した後、敦康親王は父帝の政治的配慮で継母彰子に[5]、両内親王は母后の実家にそれぞれ別れて引き取られたらしい[6]。このうち?子内親王は生来病弱で9歳にして夭折、敦康親王はたびたび立太子の話題に上りながらその都度に有力な外戚のいないことを口実に退けられ、ついに「世の中をおぼし嘆きて失せ給ひにき」(『大鏡』)。脩子内親王のみ54歳の長寿(当時としては)を全うしたが、生涯独身であった。結局、定子の後裔は敦康親王の一人娘嫄子女王が後朱雀天皇との間に生んだ2人の皇女(ともに未婚)を最後に絶えたのである。

2009年01月21日

薙刀(なぎなた)

薙刀(なぎなた)は日本の長柄武器の一種で、平安時代に登場した武具である。

堅い木で作られた長い柄の先に反りのある刀身を装着した武具で、当初は「長刀」(”ながなた”とも読まれた)と表記されていたが、「刀」に打刀という様式が生まれると、「打刀」を「短刀」と区別するために呼称する「長刀」(ちょうとう)と区別するため、「薙刀」と表記されるようになった。

類似の武器に「長巻」があるが、長巻は長大な太刀を振るい易くするために柄をそのまま長く伸ばした”柄の長い刀”であるのに対し、薙刀は刀の柄をただ長くしただけではなく、刀身及び柄の形状共に斬撃に特化させた「長柄武器」である。

日本において武士の主な戦闘方法は遠距離から馬上で弓を射ることであったが、名乗りを上げて一騎打ちを行う際には太刀を用いての接近戦も行われた。
戦闘方法の変化から徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)という概念が一般化すると、接近して斬り合う状況において有利な間合いで戦うための武器が求められるようになり、薙刀は騎馬武者から足軽まで広く用いられる主武器となった。

薙刀(長刀)が誕生した過程については研究が進められていないために未だにはっきりとは判明していないが、単純により間合いを大きく取れる太刀を求めた結果柄が自然と長くなったものだとする説から、奈良時代後期から鎌倉時代にかけて「手鉾(てほこ、てぼこ とも読む)」と呼ばれる、一尺(約30cm)から二尺(約60cm)程の刀身を比較的短い(刀身の長さと同程度)柄に嵌めて用いる柄武器が存在しており、これが改良されたものが「長刀(薙刀)」であるという説、また、大陸に渡って仏教を学んだ僧によって中国の長柄武器である大刀が伝えられ、これに習って日本で作られたものが奈良時代から平安時代にかけて寺院の守護のために僧兵の武器として広く用いられており、これが「長刀」の発祥であるという説もあり、その起源と発達過程については諸説存在する。

薙刀の使用が最も盛んであったのは源平時代の頃であり、その後南北朝時代に至ると「矛」から発展した長柄武器として槍が登場し、また長巻の登場によって薙刀が戦場で用いられることは少なくなっていった。
応仁の乱の頃より戦闘の主流が足軽による集団戦に変わると、”振り回す”形で使う武器は密集した隊列を組んで行う戦闘において不便であり、やがて槍に取って代わられていった。

その後戦国時代に鉄砲が伝来すると長柄武器そのものが衰退し、薙刀は僧侶、婦女子の用いる武具となっていく。

実戦武具としては廃れたものの、江戸時代には武家の婦女子の習う必須の武芸として稽古され、武士の家であれば嫁入りの際には薙刀を必ず持参したという。大正から戦後にかけて、主に女性のたしなむ武道となり、「なぎなた」として現代も競技が盛んである。

薙刀は長期に渡って用いられているため、刀身や柄の形状は多岐に渡っている。

通常、柄の長さは三尺から六尺(約90?180cm)、刃は一尺から二尺(約30?60cm)程度で、刀に長い柄をつけたものから発達したという経緯から刀身には鎺(はばき)と切羽が付き、小さいながらも鍔を持ち、柄の断面も楕円形をしているのが常形とされている。

刀身がニ尺(約60cm)超、柄が七尺(約210cm)を超えるようなものは「大薙刀(おおなぎなた)」と呼ばれ、二間(約3.6m)に迫る全長のものも存在した。
大薙刀は武具の長大化が流行した南北朝時代に多く作られ、大薙刀に対して従来の長さの刀身と柄を持つものは「小薙刀(こなぎなた、しょうなぎなた)」と呼ばれた。

刀身は概ね先反りで「冠落造り(かんむりおとしづくり)」もしくは「菖蒲造り(しょうぶづくり)」の刀身形状を持ち、「薙刀樋(なぎなたひ)」と呼ばれる刀身の中程までの樋を掻いている。槍に比べると茎(なかご)は短く、槍のように茎が刀身長の何倍もの長さを持つことは稀である。銘は刀銘(切先を右に向けて刃を上にしたときに見える側)に切るのが常とされる。
刀身の身幅が細く反りが少ないものを静御前にちなんで「静型(しずかがた)」、身幅が広く反りの大きいものを巴御前にちなんで「巴型(ともえがた)」と呼ぶ。現存する薙刀の拵えで、柄の短いものの刀身は殆どが巴型である。巴型は反りが大きいために、少ない力で斬り付け易く、馬上で用いるものや体格の小さいもの(婦女子含め)が使うことに有利であったためと考えられている。

槍と違い石突(いしづき:柄の終端、刃のある側の反対側に装着する金具)を地面に突き立てることには殆ど使わないため、石突は先尖形ではなく半月形等の、石突側でも「斬り付ける」用途に向いた形状をしているものが多い。

また、「水軍用」と呼ばれる船上で使うためのものがあり、柄が短く、艪としても用いれるように石突が翼状の形状をしている。

薙刀に「号」をつける場合は女性の名をつけるのが慣わしである。

筑紫薙刀 
筑紫薙刀(つくしなぎなた)とは、室町時代に九州で流行した特異な形状の長柄武器で、九州の筑紫地方で多く用いられたためこの名がある。
通常の薙刀とは違い茎を柄に挿して目釘で固定するのではなく、刀身の後端部、通常の刀であれば茎に相当する部分の峰側に櫃(ひつ)と呼ばれる輪状の金具を持ち、この部分に柄を挿込んで固定する、日本の武器としては珍しい方式の武具である。

中国大陸より伝来した各種の長柄武器から発展したものと考えられているが、農器具としての「鉈」には「草刈大鎌」「枝切大鎌」と呼ばれる長い柄をつけたものがあり、同じように櫃を用いて固定する形式のものであることから、これらの長柄鉈から発展したという説も有力である。このため、筑紫薙刀を「鉈長刀(なたなぎなた)」または「無爪鉈長刀(むそうなたなぎなた)」とも呼称する。「鉈長刀」の呼び名は、『大友興廃記』の中でも度々登場し、大友氏ではこの武具が重用されていたことを示している。
きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

また、大阪府羽曳野市の壷井八幡宮には神功皇后所持との伝承がある薙刀が収蔵されており、この薙刀は筑紫薙刀の形式である。

 袋薙刀 
安土桃山時代になり、筑紫薙刀と同じように刀身の峰側に櫃(ひつ)を持ち、この部分に柄を挿し込んで固定して使用する形式の長柄武器が出現した。これらは「袋薙刀(ふくろなぎなた)」と呼ばれ、瀬戸内の水軍衆を中心に用いられている。
”袋*”という名称であるが、「袋槍(ふくろやり)」とは違って刀身の根元がソケット状の「袋穂(ふくろほ)」になっているわけではなく、武器としての形状は筑紫薙刀とほぼ同じである。筑紫薙刀との違いは、刀身の形状が薙刀とほぼ同じ冠落造りや菖蒲造りの刀身形状を持つものから鎬の無い平造りのもの、ほぼ半月形に近い形状のものまで多岐に渡っていることと、櫃が二つあるものが多く存在することである。

通常の薙刀や槍と違い刀身と柄が容易に分離できる構造となっているのは、持ち運びの際に嵩張ることを避けるためである、との考察もあるが、長柄武器で持ち運びの際に嵩張るのは柄であって刀身ではないことから、この説には異論も出されている。
水軍衆に多く用いられた武器であることから、艪や櫂を応急的に長柄武器として用いるための手段として誕生したのではないか、とも考えられている。

筑紫薙刀とは起源・発祥共に関連性はない、と考えられているが、何故ほぼ同形状同用途の武具が年代を経て出現しているのかについては判然としていない。現在のところ、筑紫薙刀と同じく農器具としての長柄鉈から発展したという説が有力とされているが、既存の脇差や短刀を長柄武器として用いるために「櫃」を付け足して急造の薙刀として用いたものが発祥であるとの説もあり、起源や発祥については解明されていない部分が多いのが実態である。

 薙刀直し 
薙刀が戦場で用いられることが少なくなると「薙刀直し(なぎなたなおし)」と呼ばれる、薙刀を基にして刀に作り変えたものが多く作られた。薙刀は打刀や太刀に比べると刃渡りが比較的短い為、茎を切り詰めて脇差や短刀に仕立てたものが多い。
薙刀を造り変えて「刀」としたものではなく、作刀時から薙刀直しであるかのような形状として造られた刀もあり、それらは「薙刀直し造り(なぎなたなおしつくり)」と呼ばれる。

現存する薙刀 
薙刀は長きに渡って広く使われたため作刀された数も多いが、戦場で使用されることが少なくなってよりは鋳潰されて刀や槍、ひいては鍬や鋤などの農具の素材とされてしまったり、前述の「薙刀直し」とされたものも多く、薙刀そのものは現代でも高名な刀匠の手によるものから無銘の「数打ち物」と呼ばれるものまで多数が現存しているが、江戸期以前のもので作刀当初の姿のまま現存するものは少ない。

長大に造られた「大薙刀」と呼ばれるものがいく振りか神社に奉納されて現存しており、作刀された当時の姿のまま現代に伝えられてている。

日光東照宮
刃長 65.9cm 反り 3.0cm 茎長 77.7cm
外部リンク大薙刀
千葉県立総南博物館
刃長 80cm
外部リンク大薙刀
法善寺(山梨県南アルプス市(旧中巨摩郡白根町)加賀美
長さ4尺6寸、身幅1寸5分、厚さ4分半